河合隼雄の「ぼーっと聴く」
聴くということは、非常にスリリングな行為だと、つとに河合隼雄さんは指摘しています。
「死のうと思っています」
そう言われて、「はー」と返す。
ここにはカウンセラーの賭けがある。
患者の可能性に賭けているのだと。
この可能性は、患者の考えていること、感じていることよりも、さらに深いところにある。そのため、患者がことばや態度で表現することにとらわれていてはいけない。
河合先生は、細部にとらわれてはいけないと言われます。
細部にとらわれると、そのひとそのものがわからなくなる。
「ぼーっと聴く」というのは、そのひとの可能性に賭けて、そのひとそのものをわかろうとすることなのでしょう。
ここで、わかるというのは理解するということではなく、感得することだとも言われます。感心する。感激する。
「人の心などわかるはずがない」
そのように河合先生は言い切ってもいるのですが、そこでのわかるは、理解するという意味なのでしょう。
つまり、客観的に観察できる事象から吸い上げて、このひとはこういうひとだと説明可能な言語にする。それを理解するということだとすると、それは分析する、解釈するということでもある。
感得するという意味でのわかるは、そうではなく、たとえば、パッと見てわかる、そういうのに近い。「ユング心理学入門」に書かれている現象学的接近法。
ここで、河合先生が着目しているのは、関係性。そこで、問われているのは、カウンセラー自身が、患者との対話で、何を感じ、何を考えているのか、ということです。つまり、患者がもつ悩みなどに対して、カウンセラーも当事者であることが強調されている。
ひとの悩みを聞いて、
「がんばってください」
というのは、当事者のことばとしてはありえない。
カウンセラーが当事者意識をもつということはどういうことなのか?
たとえば、クライエントもカウンセラーから感じ考える。ふんふんとうなづいているけれど、ビンボーゆすりをしているカウンセラーからクライエントはどんなことを感じるか?
カウンセリングとは、クライエントとカウンセラーの相互作用の営みであって、カウンセラーの一挙手一投足がクライエントに影響を与えている。それ以前に、お互いの存在自体が影響を与え合っている。
この相互作用そのものからはカウンセラーは逃れられない。
そう考えると、当事者意識が問われているというのも、その浅い、深いが問われているのだと思うのです。