47歳からの心理学学習帖

週末研究者の研究ノート。キャリアカウンセリングを中心に、心理学、社会学などのトピックを取り上げていきます。過去記事には東京未来大学在籍時の学習ノートをそのまま残しています。

アドラー心理学の拡がりと可能性

アドラー心理学の日本での展開は、「自己啓発の源流」が大勢を占めているのではありません。80年代の頃から子育てなどの分野を中心に、日本各地でサークル活動が行われて来ています。その頃からアドラー心理学に着目されてこられた方は今でも活躍されています。

一般に広く知られるようになったのは、2010年あたりからなのでしょう。「嫌われた勇気」の岸見氏もアドラーカウンセラーの方なので、ある意味、30年近い日本でのアドラー心理学の活動が一気に拡がりを見せたということなのでしょうか? 本屋に行けばアドラー心理学の本は、今でも結構目に付きます。

 

私がアドラー心理学に興味を持ったのも3年ほど前。ちょうど心理学に興味を持ち始めた頃と重なります。

主体論や認知論、社会統合論など、初めは、哲学かと思いました。幸福論の1つくらいの認識しか持ってませんでした。
その後、大学通信で心理学を学ぶ機会を得てからも、アドラー心理学はまったく出て来ません。臨床心理学の教科書にすらアドラーの名前を見た記憶はありません。
 
それからしばらく経って、キャリアに興味を持ち始めたあたりから、アドラー心理学への興味が実際に湧いてきました。
サビカスのキャリアカウンセリング論を読み、そこにアドラーの名前を見つけたときにギャップを感じたところから色々と読み始めました。
 
まあ、サビカスがあまりにも難解過ぎたということが大きいですね。
 
ナラティブ?社会構成主義? 
…で、アドラー
 
サビカスを理解する手がかりはアドラーにあるのかもしれない。
書店に並ぶアドラーに関する書物を見て、そう直感し、かつてよんだ向後先生の本を再読したり。
そのうち、サビカスよりもアドラーにより興味が移っていきました。
 
アドラーへシンパシーを感じるところはいくつもあるのですが、最初にそう感じたのは、フロイトアドラーの客層の違い。上流階級の相談の多いフロイトに対し、アドラーのお客さんは、サーカス団員をはじめ、下層から中流階級が主だったといいます。そのため、専門用語や難しい言葉は使わず、平易な言葉を使っていたようです。
 
一方、やっとわかりかけてきたかなと思うのは、共同体感覚。
この日本語訳は誤解を招くと考えていますが、英訳では、social interest 。
アドラー心理学のコアな概念です。この感覚の有る無しで、ライフスタイルも、人生の目標もまったく変わってしまうというくらい、重要な概念。これがなかなか理解できなかった。今もはっきりとした自信はありません。ただ、こういうことかなというのはあって、それは知っているだけでは何の意味もない。感情や態度、行動として表現されるもの、言葉では捉えられない、感覚として捉えるものだと思っています。
 
「人生の意味の心理学」など、アドラーの著作を直に読んでいると、非常に厳しいと感じることもあります。自分自身との直面化が起こる。自身との対峙を迫られるんですね。
私にとって典型的なのは、「甘やかされた子ども」。
「家族布置」、「出生順位」も同様なんですが、「甘やかされた子ども」の記述は、どれも自分との対峙を迫られます。ここで、こういう風に書くのはどうかと感じるのですが、正直、自分の生育歴を振り返ると、自分は「甘やかされた子ども」だったと思わざるを得ない。アドラーによれば5歳くらいに人のライフスタイルは出来上がるのですが、確かに学童期、思春期、青年期に、自分の行動や趣味嗜好、人間関係の取り方、思考など、一貫している身の処し方があると感じるのです。これ以上具体的に書くのはやめますが、その一貫した態度の存在に気づき、そこに先述の共同体感覚が欠如していることに愕然となりました。そのことによって、日常的に表立って何かが変わったことはなく、また、愕然としたとはいえ、絶望したというわけではありません。感情の起伏が変わったり、動揺しているわけでもありません。「甘やかされた子ども」としての自分を受け入れたということにすぎません。ただ、自分の一面を受け入れることによって、精神的に今までになく落ち着いています。サイコセラピーに近い効果があるという実感。
 
アドラーを読むことで、心が落ち着く、スッとする、心のシコリがとれるといったことは起こりえます。必ず起こるとは言えないですが、なんか落ち着かない、イライラする、理由もなく不安、そんな時、アドラーを読むと、心が安定を取り戻すことがあるのは事実です。
 
アドラー心理学が心理学の教科書に出てこないのは、日本の心理学は実験研究を中心とした基礎心理学がこれまでの中心だったということが大きいと思います。これは河合隼雄先生も指摘していますが、臨床心理学は長く脇に置かれていました。フロイトユングも、心理学よりも精神医学のほうで受け止められてきました。
アドラー心理学は実践的な「使用の心理学」として、あまりアカデミックな研究がされてこなかったということも大きい。その点では、ニッポンのアドラー心理学は、やはり、科学偏重のニッポンの心理学と距離があった。ところが、心理学の世界でも科学偏重への見直しが始まり、質的研究も拡がっているということと、著名な心理療法家がアドラーからの影響を表明しているという事実から、アドラー心理学と他の心理療法との結びつきが知られるようになってきています。
 
臨床心理学の起源とも言われるアドラー心理学には、オープンカウンセリングの先駆と呼べることをアドラーがウィーンでやっていたり、ビンスワンガーからの影響による認知への着目もある。また、早期回想はサビカスのキャリアインタビューに取り入れられているし、拾っていくと、次々と、現在の心理学、心理療法と近い、類似している、さらに直接取り入れられる考えや技法に枚挙にいとまがない。
 
現代の臨床心理学がもつ生物心理社会モデルと科学者実践家モデルという特徴は、現代アドラー心理学も共有されうるものでしょう。そこでは、認知心理学を始め、社会心理学発達心理学を受け入れられる拡がりがアドラー心理学にはある。エビデンスベースドによる介入研究がアドラー心理学でも進んでいくとすると、そこにアドラー心理学の今後の発展性、可能性に期待できる。というか、そのような方向に自分も携わろうと考えています。